2008年02月10日
小説「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー著)のメッセージ
ベータとプサイの間
ドストエフスキーは私たちの世界に厳然として存在する悪に目を見開いていた作家です。何の罪もないのに悪意の大人に虐げられ、また殺される子供たちや動物たち(つまり弱者)に作家はたびたび言及します。私たちの誰よりこの問題に深く心を痛めていた様子が窺えます。キリスト者ドストエフスキーにとって、それは次の問いに対する答えを探す旅でもありました―なぜ神がこの悲惨な現実を許容するのか?
ドストエフスキーが作家生命を掛けて、3つの方向からこの問いにアプローチしたと私は考えます。
1.無神論+社会改革
「神など存在せず、この世界が弱肉強食の原理に従っているだけのこと」と宣言したのは、「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフでした。「世界の悲惨さを減じるためには自らが強者となって世界を改革するしかない」とする「無神論+社会改革」のパターンを彼は体現しています。
神(永遠)が存在しない世界では倫理・規範は無意味であり、すべてが許される理屈です。ラスコーリニコフはこの思想を実践しながら、しかし信じ続けることができません。そこに何か大きな矛盾があることを魂が感じたからです。やがてその直感は、許されるとするなら究極的には踏み越えたすべての人に許されるということであり、最後の一人となるまで続く戦いによって世界の破壊だけが実現されるとの認識によって裏付けられます。
今回、取り上げた「カラマーゾフの兄弟」に登場するスメルジャコフも同じパターンで造形された人物です。彼にはこのパターンの帰結として滅びが定められています。この思想を彼に吹き込んだのは二男イワンであり、彼も精神に異常を来して滅びるのですが、この人物はもう少し複雑に造形されており、表面的には無神論者なのに揺れを見せます(三男アリョーシャと同じ神懸かりの母を持つ設定)。
2.キリスト教精神+社会改革
揺れるイワンが公に主張するのが第二のパターン「キリスト教精神+社会改革」です。彼は神がこの現実を許容するのはおかしいと考えています。もし神が存在するにしても、その神が創った世界は断固拒否するという立場です。しかるべき宗教者がキリストの精神をもってこの世界を治めなければならない(独裁制であれ、善政が期待されている)。イワンが創作した大審問官は世界の創造(アルファ)と裁き(オメガ)だけは神に委ねるが、その間の世界運営については自分に任せろと神に迫ります。(国家が教会になるべきとの主張も同趣旨)
この考えは当ブログが以前に取り上げた「理神論」に他なりません。キリスト教世界は、「信仰」の時代から「理神論」を経由して現代の実質的「無神論」へと変節してきました(神の権威の段階的限定から否定へ)。「理神論」は中世と現代をつなぐ重要なリングです(ドストエフスキーはフリーメーソンにこの思想を見たようです)。第一のパターン「無神論+社会改革」よりも「キリスト精神+社会改革」をドストエフスキーは危険視しています。それは神の意志に真っ向から反するからですが、このことを理解するためには、さらに先へ進む必要があります。
3.神への全幅の信頼
第三のパターンは「神への全幅の信頼」です―「神の御業は人の目には不可解だ。悲惨な現実も最善の結果を招来するためにある」。現実を根拠とした神への異議申し立ては旧約聖書のヨブに倣って取り下げられます。長男ミーチャが流刑に処されるとするなら、それは人の目には大きな不幸に見えます。しかしそれがミーチャが更生するために避けられない道だったとすれば?本人はそのことを自覚して受け入れようとします(ドストエフスキーの実人生との重なり)。あるいはコーリャ少年の死は窮乏家庭における受け入れ難い悲劇のはずです。しかしそれを作家は何かむしろ暖かいものとして描きます。
神の道はまっすぐではない、その途上には正反対の出来事が配されることがある―これがドストエフスキーの結論です(同時に彼の創作手法としても確立)。幻の次作(第二の小説)で作家がこのシミュレーションを試行するつもりだったと、私は思います。アリョーシャは多くの方の推察どおり皇帝暗殺という父殺しへと進むのでしょう。それは「キリスト精神+社会改革」の実践として行われざるを得ないのです(この意味でイワンはアリョーシャに期待)。この正反対の道を通って、アリョーシャが「カラマーゾフの兄弟(第一の小説)」で示唆された「神への全幅の信頼」へと至る物語が、次作で本格的に展開されるはずだったと思います。
神に信頼する立場からは、人間の手による社会改革は不要です。社会主義者にせよ、宗教者にせよ、およそ人間の手によって世界調和を目的に遂行される改革は、最善の結果を招来する神に反して、無数のより悲惨な出来事を招来するばかりです。その最終目的である世界調和などとても実現されません。
しかし人間のそのような愚かな試みさえ神は歴史に織り込んでいます。イワンはそのことにも気づいていたと私は思います(イワンはすべてのパターンを横断する預言者のような役回り)。動機は純粋でありながら間違った道を突き進もうとする大審問官に「彼」が口づけをするシーンをイワンは物語詩の最後に置いたのです。
その後の大審問官、書かれなかった続編のアリョーシャと共に祈りを捧げたいと思います―生きている父よ、わたしの思いではなくあなたの御心が行われますように!
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキーは私たちの世界に厳然として存在する悪に目を見開いていた作家です。何の罪もないのに悪意の大人に虐げられ、また殺される子供たちや動物たち(つまり弱者)に作家はたびたび言及します。私たちの誰よりこの問題に深く心を痛めていた様子が窺えます。キリスト者ドストエフスキーにとって、それは次の問いに対する答えを探す旅でもありました―なぜ神がこの悲惨な現実を許容するのか?
ドストエフスキーが作家生命を掛けて、3つの方向からこの問いにアプローチしたと私は考えます。
1.無神論+社会改革
「神など存在せず、この世界が弱肉強食の原理に従っているだけのこと」と宣言したのは、「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフでした。「世界の悲惨さを減じるためには自らが強者となって世界を改革するしかない」とする「無神論+社会改革」のパターンを彼は体現しています。
神(永遠)が存在しない世界では倫理・規範は無意味であり、すべてが許される理屈です。ラスコーリニコフはこの思想を実践しながら、しかし信じ続けることができません。そこに何か大きな矛盾があることを魂が感じたからです。やがてその直感は、許されるとするなら究極的には踏み越えたすべての人に許されるということであり、最後の一人となるまで続く戦いによって世界の破壊だけが実現されるとの認識によって裏付けられます。
今回、取り上げた「カラマーゾフの兄弟」に登場するスメルジャコフも同じパターンで造形された人物です。彼にはこのパターンの帰結として滅びが定められています。この思想を彼に吹き込んだのは二男イワンであり、彼も精神に異常を来して滅びるのですが、この人物はもう少し複雑に造形されており、表面的には無神論者なのに揺れを見せます(三男アリョーシャと同じ神懸かりの母を持つ設定)。
2.キリスト教精神+社会改革
揺れるイワンが公に主張するのが第二のパターン「キリスト教精神+社会改革」です。彼は神がこの現実を許容するのはおかしいと考えています。もし神が存在するにしても、その神が創った世界は断固拒否するという立場です。しかるべき宗教者がキリストの精神をもってこの世界を治めなければならない(独裁制であれ、善政が期待されている)。イワンが創作した大審問官は世界の創造(アルファ)と裁き(オメガ)だけは神に委ねるが、その間の世界運営については自分に任せろと神に迫ります。(国家が教会になるべきとの主張も同趣旨)
この考えは当ブログが以前に取り上げた「理神論」に他なりません。キリスト教世界は、「信仰」の時代から「理神論」を経由して現代の実質的「無神論」へと変節してきました(神の権威の段階的限定から否定へ)。「理神論」は中世と現代をつなぐ重要なリングです(ドストエフスキーはフリーメーソンにこの思想を見たようです)。第一のパターン「無神論+社会改革」よりも「キリスト精神+社会改革」をドストエフスキーは危険視しています。それは神の意志に真っ向から反するからですが、このことを理解するためには、さらに先へ進む必要があります。
3.神への全幅の信頼
第三のパターンは「神への全幅の信頼」です―「神の御業は人の目には不可解だ。悲惨な現実も最善の結果を招来するためにある」。現実を根拠とした神への異議申し立ては旧約聖書のヨブに倣って取り下げられます。長男ミーチャが流刑に処されるとするなら、それは人の目には大きな不幸に見えます。しかしそれがミーチャが更生するために避けられない道だったとすれば?本人はそのことを自覚して受け入れようとします(ドストエフスキーの実人生との重なり)。あるいはコーリャ少年の死は窮乏家庭における受け入れ難い悲劇のはずです。しかしそれを作家は何かむしろ暖かいものとして描きます。
神の道はまっすぐではない、その途上には正反対の出来事が配されることがある―これがドストエフスキーの結論です(同時に彼の創作手法としても確立)。幻の次作(第二の小説)で作家がこのシミュレーションを試行するつもりだったと、私は思います。アリョーシャは多くの方の推察どおり皇帝暗殺という父殺しへと進むのでしょう。それは「キリスト精神+社会改革」の実践として行われざるを得ないのです(この意味でイワンはアリョーシャに期待)。この正反対の道を通って、アリョーシャが「カラマーゾフの兄弟(第一の小説)」で示唆された「神への全幅の信頼」へと至る物語が、次作で本格的に展開されるはずだったと思います。
神に信頼する立場からは、人間の手による社会改革は不要です。社会主義者にせよ、宗教者にせよ、およそ人間の手によって世界調和を目的に遂行される改革は、最善の結果を招来する神に反して、無数のより悲惨な出来事を招来するばかりです。その最終目的である世界調和などとても実現されません。
しかし人間のそのような愚かな試みさえ神は歴史に織り込んでいます。イワンはそのことにも気づいていたと私は思います(イワンはすべてのパターンを横断する預言者のような役回り)。動機は純粋でありながら間違った道を突き進もうとする大審問官に「彼」が口づけをするシーンをイワンは物語詩の最後に置いたのです。
その後の大審問官、書かれなかった続編のアリョーシャと共に祈りを捧げたいと思います―生きている父よ、わたしの思いではなくあなたの御心が行われますように!
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
