2008年01月26日
映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック製作)のメッセージ2
死を相対化するアングル
アメリカという国はいつも「死の恐怖」に怯えています。そのため、互いに対して(隣人同士、国民同士)、また他国に対して攻撃的に振舞います。とは言え、こうした姿勢がかの国に限ったものかと言えばそうでもありません。程度の差はあれ、それは現代人の魂底に横たわる闇であるに違いありません。その意味で、死の恐怖を克服した人間を未来への希望として登場させた映画「2001年宇宙の旅」に現代の闇を破るヒントを探る試みは無駄ではないでしょう。
(参考)映画「2001年宇宙の旅」のメッセージ
死の恐怖に駆られ、乗員を殺害したのはHAL9000でした。この人工知能は宇宙船の到る所に目を持ち、いわば全世界を監視しています。しかし、その対象は「自分自身以外のすべて」だったことに気付かされます。こう考えてみましょう―もしHALが乗員を宇宙のかなたに跳ね飛ばす自分自身を見ていたら?HALはその行為が本当に間違っていなかったか省りみることができたのでは?ほんの小さな疑問なり、混乱なりが起きれば、人工冬眠中の他の乗員を冷静に殺害することはできなかったのでは?
このような想像をしてみるのは、死の恐怖を克服してスターチャイルドとなった宇宙飛行士ボーマンが自分の老いと死を第三者の目で眺める情景が映画に描かれているからです。客観から主観へと彼は視点を何度も切り替えます。不思議な部屋に来る前に通過した空間で見せた感情の高まりと混乱は、そこでは決して再現されません。死の床で彼の魂を占めるのは、恐怖ではなく、石板への確かな希求でした。
ご承知のとおり、イエス・キリストは磔刑による死を宣せられます。その運命を知るキリストの前夜の姿を追うシーンから始まるのが映画「パッション」でした。驚くべきことに、このときイエスは死の恐怖に駆られています。「父よ、できることなら、この杯(刑死)を私から過ぎ去らせてください」イエスのその苦しみが尋常でなかった様子が福音書からもはっきりと読み取れます。
イエスはその気になれば、運命から逃げ出すことも、迫害者と戦いを交えることもできたはずです。しかしそうはしません。イエスは恐怖を克服してこう呟きます「わたしが願うことではなく、あなたの御心が行われますように」―父なる神の視点から自分の死を、その意味を見詰めることができたからです。
死に行く自分。それを見るのが自分自身の目だけなら、人は恐怖に駆られる他ありません。この運命から何とか逃れられないものか。無神論者なら、それは自分の消滅を意味するかもしれません。そうなればこれまでの生さえ虚しくなる。たとえどんな手段を使っても最悪の事態を回避しなければ。(映画「アイランド」と映画「マイノリティリポート」で全く同じセリフ「生き残るためなら何だってする」が使用されます。これがスピルバーグとその背後にいる者たちの死生観です)
しかし、そこに他者の目が加わると、死の相対化が始まります。死が何らかの意味を持つ可能性がそこから見えてきます。死のそばには別の生があるかもしれない。少なくとも誰かの肥やしくらいにはなるだろう。そして、その他者が絶対他者なら、その価値は最大となります。何しろ、一つの死からは多くの実が結ばれ、すずめ一羽の死さえ神の手の中に置かれることが約束されているのですから。
無価値な死はなく、従って無価値な生はない―こうして人は死を受け入れることもできるのです。
(参考)映画「アポカリプト」のメッセージ
アメリカという国はいつも「死の恐怖」に怯えています。そのため、互いに対して(隣人同士、国民同士)、また他国に対して攻撃的に振舞います。とは言え、こうした姿勢がかの国に限ったものかと言えばそうでもありません。程度の差はあれ、それは現代人の魂底に横たわる闇であるに違いありません。その意味で、死の恐怖を克服した人間を未来への希望として登場させた映画「2001年宇宙の旅」に現代の闇を破るヒントを探る試みは無駄ではないでしょう。
(参考)映画「2001年宇宙の旅」のメッセージ
死の恐怖に駆られ、乗員を殺害したのはHAL9000でした。この人工知能は宇宙船の到る所に目を持ち、いわば全世界を監視しています。しかし、その対象は「自分自身以外のすべて」だったことに気付かされます。こう考えてみましょう―もしHALが乗員を宇宙のかなたに跳ね飛ばす自分自身を見ていたら?HALはその行為が本当に間違っていなかったか省りみることができたのでは?ほんの小さな疑問なり、混乱なりが起きれば、人工冬眠中の他の乗員を冷静に殺害することはできなかったのでは?
このような想像をしてみるのは、死の恐怖を克服してスターチャイルドとなった宇宙飛行士ボーマンが自分の老いと死を第三者の目で眺める情景が映画に描かれているからです。客観から主観へと彼は視点を何度も切り替えます。不思議な部屋に来る前に通過した空間で見せた感情の高まりと混乱は、そこでは決して再現されません。死の床で彼の魂を占めるのは、恐怖ではなく、石板への確かな希求でした。
ご承知のとおり、イエス・キリストは磔刑による死を宣せられます。その運命を知るキリストの前夜の姿を追うシーンから始まるのが映画「パッション」でした。驚くべきことに、このときイエスは死の恐怖に駆られています。「父よ、できることなら、この杯(刑死)を私から過ぎ去らせてください」イエスのその苦しみが尋常でなかった様子が福音書からもはっきりと読み取れます。
イエスはその気になれば、運命から逃げ出すことも、迫害者と戦いを交えることもできたはずです。しかしそうはしません。イエスは恐怖を克服してこう呟きます「わたしが願うことではなく、あなたの御心が行われますように」―父なる神の視点から自分の死を、その意味を見詰めることができたからです。
死に行く自分。それを見るのが自分自身の目だけなら、人は恐怖に駆られる他ありません。この運命から何とか逃れられないものか。無神論者なら、それは自分の消滅を意味するかもしれません。そうなればこれまでの生さえ虚しくなる。たとえどんな手段を使っても最悪の事態を回避しなければ。(映画「アイランド」と映画「マイノリティリポート」で全く同じセリフ「生き残るためなら何だってする」が使用されます。これがスピルバーグとその背後にいる者たちの死生観です)
しかし、そこに他者の目が加わると、死の相対化が始まります。死が何らかの意味を持つ可能性がそこから見えてきます。死のそばには別の生があるかもしれない。少なくとも誰かの肥やしくらいにはなるだろう。そして、その他者が絶対他者なら、その価値は最大となります。何しろ、一つの死からは多くの実が結ばれ、すずめ一羽の死さえ神の手の中に置かれることが約束されているのですから。
無価値な死はなく、従って無価値な生はない―こうして人は死を受け入れることもできるのです。
(参考)映画「アポカリプト」のメッセージ
出演:キア・デュリア
収録時間:148分
レンタル開始日:2001-08-23
Story
『2001年宇宙の旅』は、明日へのカウント・ダウン、人類の運命の地図、無限への旅…。アカデミー賞を獲得した、目も眩むばかりの映像の到達点ともいえる作品。人間対コンピュータの戦い、想像を絶するほどの映像(詳細こちら)
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この記事へのコメント
1. Posted by なお
2008年02月01日 08:17
こんにちは。私は無神論者なので、「キリスト」を崇拝する意味が分かりません。現在の社会の「宗教」は統治の為に(歴史の中で)人間に意図的に変容させられたものでは?不完全な人間が己の為に作り上げてきたものを信仰する価値があるのですか?
2. Posted by zero
2008年02月01日 10:42
なおさん、コメントをありがとうございます。zeroです。
世界の真実とは何か、そもそも真実なんてものがあるのかといったテーマを真剣に考えていらっしゃる方だろうなと感じます。神(創造主)について言えば、結論は「存在する」か「存在しない」かの二つに一つです。早々に結論を出してしまおうと思えば、一瞬で可能です。それをなおさんや私を、ああでもない、こうでもないと迷わせてしまう対象っていったい何なのでしょう。(下に続く)
世界の真実とは何か、そもそも真実なんてものがあるのかといったテーマを真剣に考えていらっしゃる方だろうなと感じます。神(創造主)について言えば、結論は「存在する」か「存在しない」かの二つに一つです。早々に結論を出してしまおうと思えば、一瞬で可能です。それをなおさんや私を、ああでもない、こうでもないと迷わせてしまう対象っていったい何なのでしょう。(下に続く)
3. Posted by zero
2008年02月01日 10:45
(上から続く)
今、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を再読中です。まさに私たちの精神的兄弟たちが、二つの結論を巡って大わらわです。素敵ですね!
人間は一生をかけてこの二つの結論の間を揺れ動き続けるものかもしれません。そして、「これこそ我が結論」と叫ぶきっかけは、案外、思考ではなく、私的な事実(現実)であったりするのかもしれません。
今、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を再読中です。まさに私たちの精神的兄弟たちが、二つの結論を巡って大わらわです。素敵ですね!
人間は一生をかけてこの二つの結論の間を揺れ動き続けるものかもしれません。そして、「これこそ我が結論」と叫ぶきっかけは、案外、思考ではなく、私的な事実(現実)であったりするのかもしれません。


