2007年06月23日
映画「アポカリプト」(メル・ギブソン監督)のメッセージ
新しき始まりへの苦い道
ウィリアム・ゴールディングの名をご記憶でしょうか。「ガイア理論」の名づけ親であり、映画「レディインザウォーター」や「ヘルマプロディートス」が指し示す「無垢」をライフテーマとした作家です。HGウェルズと共に、ロックフェラーフィルムを追跡する私の視線の先と幾度も交錯する不思議な人物です(ゴールディングは知人ウェルズを批判的に語ってみせたりはしますが、人間そのものに懐疑の目を向ける二人の基本的立場は一致しています)。メル・ギブソン監督の最新作「アポカリプト」は、このゴールディングが著した小説「蠅の王」を強く意識した作品でした。
小説「蠅の王」で作品のテーマに深く関わる重要な行為として描かれた豚狩りのシーンから映画「アポカリプト」は幕を開けます(正確には豚に似たバクです)。森から飛び出す動物とそれを追う人間の構図。作品はその同じ森からマヤの傭兵に追われる海の小部族民を登場させて、動物から人間への転換を図ります。やがて主人公ジャガー・バウの部族(森の小部族)もまた同じ襲撃者に追われる身となります。
「追う者」が次々に「追われる者」となる構図の転換は、ついに小部族民を狩ったマヤの都市部族民をさえ「追われる者」とします。映画「アポカリプト」は終幕にマヤ文明を崩壊させたスペイン人の艦隊が来航する場面を描くことで、史実を知る観客に転換のダイナミズムを認識させます。さらに私たちはスペイン人がイギリス人、アメリカ人に追われ覇権を失うに至ることを、英米人を始め植民地主義・帝国主義を掲げた人々がその後も世界各地で多くの民族を狩り続けたことを知っています。人類の歴史上、「追う者から追われる者への転換」が延々と繰り返されたことを痛切に思い起こさせます。
映画「アポカリプト」の象徴的なラストシーンは、「蠅の王」のエンディングそのままです。小説「蠅の王」では豚狩りが少年たちの魂に宿る暴力性・残虐性を目覚めさせました。この作品を強く意識する本作が、人間が本来持っている暴力性・残虐性を暴こうとしているのは明らかです。作品はこれでもかとばかりに残虐シーンを連続させて、私たちに直視を促します。私たちは追われる者たちと共につぶやくに至ります。そうした暴力や残虐のない「新しき始まり」はどこにあるのだろうか、そもそもそんなものがあるのか、と。
その問いに答えるのは、本作に重ねられたもう一つの作品、監督の前作「パッション」です。処刑場までのイエスキリストの苦痛に満ちた道行とバウたちの連行が重ねられます。子供たちは心を引き裂かれながら連行される親たちの後を追います。都市に着いた彼らに住民たちは救い主であるかのように願いを託し、手を合わせます。 監督はバウたちがイエス・キリストだと言いたいのではありません。逆にイエス・キリストの道が、人間が歴史で繰り返す暴力・残虐の道を象徴していたと言いたいのです。イエス・キリストがそこで受けた苦痛は、大昔から現代まで延々と人間が受け続ける苦痛そのものだったのです。
映画「パッション」は本作と同じく森のシーンから始まります。その森(ゲッセマネの園)で、イエス・キリストは己の身にこれから引き受けなければならないすべての時代の人間の苦痛と悲嘆を感じていました。そこには恐怖がありました。恐怖は悪魔となって姿を現します。イエス・キリストは父なる神にすべてを委ねることでこの恐怖を克服します。そこに本作に登場するバウの父親の姿が重ねられます。恐怖に駆られて新たな恐怖を生み出す先に希望はない(病の先に死が待ち受けるように)。人間はその本性に導かれて堕ち続けるのみ―監督はそうメッセージします。
沖合の艦隊、新たな暴力の到来に引き寄せられるマヤ人たち。バウは正しくこれに背を向けます―しかし彼は敵を暴力によって倒したのではなかったでしょうか。人間の古き道を辿った彼に「新しき始まり」は見出せるのでしょうか?一方、監督は「パッション」のラストシーンにおいてイエス・キリストが立ち上がる姿をスクリーンに刻印しました。どんなに困難でも、そこにしか監督が求める「新しき始まり」はないのです。
神に委ねることを捨てた現代人がこの作品を理解することは決してないでしょう。
蝿の王
ウィリアム・ゴールディングの名をご記憶でしょうか。「ガイア理論」の名づけ親であり、映画「レディインザウォーター」や「ヘルマプロディートス」が指し示す「無垢」をライフテーマとした作家です。HGウェルズと共に、ロックフェラーフィルムを追跡する私の視線の先と幾度も交錯する不思議な人物です(ゴールディングは知人ウェルズを批判的に語ってみせたりはしますが、人間そのものに懐疑の目を向ける二人の基本的立場は一致しています)。メル・ギブソン監督の最新作「アポカリプト」は、このゴールディングが著した小説「蠅の王」を強く意識した作品でした。
小説「蠅の王」で作品のテーマに深く関わる重要な行為として描かれた豚狩りのシーンから映画「アポカリプト」は幕を開けます(正確には豚に似たバクです)。森から飛び出す動物とそれを追う人間の構図。作品はその同じ森からマヤの傭兵に追われる海の小部族民を登場させて、動物から人間への転換を図ります。やがて主人公ジャガー・バウの部族(森の小部族)もまた同じ襲撃者に追われる身となります。
「追う者」が次々に「追われる者」となる構図の転換は、ついに小部族民を狩ったマヤの都市部族民をさえ「追われる者」とします。映画「アポカリプト」は終幕にマヤ文明を崩壊させたスペイン人の艦隊が来航する場面を描くことで、史実を知る観客に転換のダイナミズムを認識させます。さらに私たちはスペイン人がイギリス人、アメリカ人に追われ覇権を失うに至ることを、英米人を始め植民地主義・帝国主義を掲げた人々がその後も世界各地で多くの民族を狩り続けたことを知っています。人類の歴史上、「追う者から追われる者への転換」が延々と繰り返されたことを痛切に思い起こさせます。
映画「アポカリプト」の象徴的なラストシーンは、「蠅の王」のエンディングそのままです。小説「蠅の王」では豚狩りが少年たちの魂に宿る暴力性・残虐性を目覚めさせました。この作品を強く意識する本作が、人間が本来持っている暴力性・残虐性を暴こうとしているのは明らかです。作品はこれでもかとばかりに残虐シーンを連続させて、私たちに直視を促します。私たちは追われる者たちと共につぶやくに至ります。そうした暴力や残虐のない「新しき始まり」はどこにあるのだろうか、そもそもそんなものがあるのか、と。
その問いに答えるのは、本作に重ねられたもう一つの作品、監督の前作「パッション」です。処刑場までのイエスキリストの苦痛に満ちた道行とバウたちの連行が重ねられます。子供たちは心を引き裂かれながら連行される親たちの後を追います。都市に着いた彼らに住民たちは救い主であるかのように願いを託し、手を合わせます。 監督はバウたちがイエス・キリストだと言いたいのではありません。逆にイエス・キリストの道が、人間が歴史で繰り返す暴力・残虐の道を象徴していたと言いたいのです。イエス・キリストがそこで受けた苦痛は、大昔から現代まで延々と人間が受け続ける苦痛そのものだったのです。
映画「パッション」は本作と同じく森のシーンから始まります。その森(ゲッセマネの園)で、イエス・キリストは己の身にこれから引き受けなければならないすべての時代の人間の苦痛と悲嘆を感じていました。そこには恐怖がありました。恐怖は悪魔となって姿を現します。イエス・キリストは父なる神にすべてを委ねることでこの恐怖を克服します。そこに本作に登場するバウの父親の姿が重ねられます。恐怖に駆られて新たな恐怖を生み出す先に希望はない(病の先に死が待ち受けるように)。人間はその本性に導かれて堕ち続けるのみ―監督はそうメッセージします。
沖合の艦隊、新たな暴力の到来に引き寄せられるマヤ人たち。バウは正しくこれに背を向けます―しかし彼は敵を暴力によって倒したのではなかったでしょうか。人間の古き道を辿った彼に「新しき始まり」は見出せるのでしょうか?一方、監督は「パッション」のラストシーンにおいてイエス・キリストが立ち上がる姿をスクリーンに刻印しました。どんなに困難でも、そこにしか監督が求める「新しき始まり」はないのです。
神に委ねることを捨てた現代人がこの作品を理解することは決してないでしょう。
蝿の王監督:メル・ギブソン
収録時間:127分
レンタル開始日:2004-12-23
Story
メル・ギブソンが監督・製作・脚本を務め、イエス・キリストの最期を描いた問題作。紀元一世紀のエルサレム。最後の晩餐の後、イエスはユダの裏切りにより捕らえられた。そして、彼の影響力を恐れる大祭司や民衆らに(詳細こちら)
監督:メル・ギブソン
収録時間:138分
レンタル開始日:2007-11-21
Story
『パッション』のメル・ギブソンが放つサバイバルアクション。マヤ文明滅亡前夜の中央アメリカ密林地帯を舞台に、狩猟民族の青年が過酷な運命に立ち向かう姿を残酷かつ壮大に描く。当時の風俗や祭祀の様子を徹底調査(詳細こちら)



