2007年05月06日
映画「バベル」(A・G・イニャリトゥ監督)のメッセージ
肉体のメッセージ
人間は天にまで届かせようと塔を築き始めた。神は言葉を混乱させ、人々を散らせた―ご存じ、旧約聖書に記されたバベルの塔の物語です。イニャリトゥ監督は映画「バベル」で、散らされた人々を再びバベルの塔に集めようと目論んだようです。「言葉」を失った人々に残された「肉体」によって。
離婚の危機に直面しているアメリカ人夫妻は言葉を交わせば喧嘩になります。二人がかろうじて繋がっているのは、事件直前に妻から彷徨うように重ねられた手の感触だけです。この微かな希望が確かな絆になるのは、瀕死の妻が夫に尿を取ってもらう瞬間です。そのとき二人の何か根源的なものが繋がり合います。多分このシーンは肉体の持つ意味を実感した経験がないと理解できないでしょう(私は名シーンだと思います)。
母親に自殺され、父親と心が離れてしまった聾の日本人女子高校生の場合はもっと直截的です。彼女が辿りついた世界との繋がりを取り戻す最後の手段は肉体でした。彼女は死に物狂いで肉体を使って人と繋がろうとします。ただそれを面白がる友人たち、冷たく拒絶する歯科医(健全ですが)、そして幸いにも彼女の魂の痛みに共感できる刑事と出会って、ようやく魂の悲鳴は止まります。コミュニケーションの始まりの合図として、彼女の手が父親の手をそっと握ります。恐らく彼女自身が自殺さえ考えたであろうその場所で。(これは傑作シーンだと思います)
大都会の無機質の闇を背景とした彼女の裸身がこの作品のメッセージを雄弁に語ります。言葉ではなく、メッセージどおりに肉体を使って。
さて、現代のバベルはどこにあったとイニャリトゥ監督は言っているのでしょうか?日本人ビジネスマンの1挺の銃は、アメリカ人女性を傷つけ、モロッコの家族を破滅させました。もう1挺の銃は彼自身の妻を殺害し、家族を崩壊の危機に陥れました。モロッコ兄弟の弟が最後に銃を破壊した仕草に象徴されるとおり、銃社会、銃の存在そのものが批判の対象にされているのは確かでしょう。
しかし私には、バベルの塔物語と同じ「創世記」に記された兄エサウと弟ヤコブの跡目争いの物語がモロッコの兄弟と重なって見えます。いくら弟が言い張っても、いくら弟が射撃が上手くとも、父親は兄に銃を渡します。またそれが悔しくて、対抗意識を燃やした弟は行動をエスカレートさせます。競争意識でしょうか、他人より優位に立ちたい欲求でしょうか、そこから生まれる妬み、羨望、それがカインをしてアベルを殺害させた魔物でもあります。
メキシコ人家政婦は「悪人か」と問うたアメリカ人の子供に言います。「悪人はいない。ただ人間は愚かなだけ」神に対抗意識を燃やした人間たちが建設に勤しんだのがバベルの塔でした。「競争」を美徳とする現代社会は、兄の負傷で目を覚ましたモロッコの弟のように、自らの愚かさに気づくときが来るでしょうか?
神の管理に異議を唱え、自ら世界経営に乗り出したあの人物は?
人間は天にまで届かせようと塔を築き始めた。神は言葉を混乱させ、人々を散らせた―ご存じ、旧約聖書に記されたバベルの塔の物語です。イニャリトゥ監督は映画「バベル」で、散らされた人々を再びバベルの塔に集めようと目論んだようです。「言葉」を失った人々に残された「肉体」によって。
離婚の危機に直面しているアメリカ人夫妻は言葉を交わせば喧嘩になります。二人がかろうじて繋がっているのは、事件直前に妻から彷徨うように重ねられた手の感触だけです。この微かな希望が確かな絆になるのは、瀕死の妻が夫に尿を取ってもらう瞬間です。そのとき二人の何か根源的なものが繋がり合います。多分このシーンは肉体の持つ意味を実感した経験がないと理解できないでしょう(私は名シーンだと思います)。
母親に自殺され、父親と心が離れてしまった聾の日本人女子高校生の場合はもっと直截的です。彼女が辿りついた世界との繋がりを取り戻す最後の手段は肉体でした。彼女は死に物狂いで肉体を使って人と繋がろうとします。ただそれを面白がる友人たち、冷たく拒絶する歯科医(健全ですが)、そして幸いにも彼女の魂の痛みに共感できる刑事と出会って、ようやく魂の悲鳴は止まります。コミュニケーションの始まりの合図として、彼女の手が父親の手をそっと握ります。恐らく彼女自身が自殺さえ考えたであろうその場所で。(これは傑作シーンだと思います)
大都会の無機質の闇を背景とした彼女の裸身がこの作品のメッセージを雄弁に語ります。言葉ではなく、メッセージどおりに肉体を使って。
さて、現代のバベルはどこにあったとイニャリトゥ監督は言っているのでしょうか?日本人ビジネスマンの1挺の銃は、アメリカ人女性を傷つけ、モロッコの家族を破滅させました。もう1挺の銃は彼自身の妻を殺害し、家族を崩壊の危機に陥れました。モロッコ兄弟の弟が最後に銃を破壊した仕草に象徴されるとおり、銃社会、銃の存在そのものが批判の対象にされているのは確かでしょう。
しかし私には、バベルの塔物語と同じ「創世記」に記された兄エサウと弟ヤコブの跡目争いの物語がモロッコの兄弟と重なって見えます。いくら弟が言い張っても、いくら弟が射撃が上手くとも、父親は兄に銃を渡します。またそれが悔しくて、対抗意識を燃やした弟は行動をエスカレートさせます。競争意識でしょうか、他人より優位に立ちたい欲求でしょうか、そこから生まれる妬み、羨望、それがカインをしてアベルを殺害させた魔物でもあります。
メキシコ人家政婦は「悪人か」と問うたアメリカ人の子供に言います。「悪人はいない。ただ人間は愚かなだけ」神に対抗意識を燃やした人間たちが建設に勤しんだのがバベルの塔でした。「競争」を美徳とする現代社会は、兄の負傷で目を覚ましたモロッコの弟のように、自らの愚かさに気づくときが来るでしょうか?
神の管理に異議を唱え、自ら世界経営に乗り出したあの人物は?

